遥かなる明日へ ~画家松井大門の七転八起き~

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2008.08.21 Thu 子供時代

何をやっても、長続きしない。最初のうちは楽しくて一生懸命なのですが、そのうち飽きてしまう。「お前には、こらえ性というものがない」。親父によく言われました・
あれもダメ、これもダメ、それもダメ、唯一、残ったのが絵を描くことでした。不思議と絵を描くことだけは飽きないのです。絵描きになろう。
将来への見通しもなく、何の計画性もないままに下した僕の決断でした。

僕は、岐阜県の山の中の十軒ほどしかない田舎で、逆子で生まれました。生まれた時は息をしていなく、産婆さんが僕の尻を二、三回叩いたらようやくオギャァと泣いたそうです。
へそ曲がりという言葉がありますが、僕の田舎ではこれをねじべぇと言います。
「お前は、生まれた時から、ねじべぇや、父ちゃんや、母ちゃんに心配ばかりかけて、何時になったら皆と同じ事が出来るんや、産婆さんに尻何ぞ叩いてもらわんほうがよかったかもしれん.].お袋によく言われた言葉です。
逆子とねじべぇに、どんなつながりがあるのかは良く解りませんが、ねじべぇであった事は事実です。
学校でも家でも、こうしなさい、ああしなさいと言われると、一番最初に、じゃあそれはしないでおこうと思うのでした。
そんなわけで、こんな事はいけない、あんな事もいけないという悪戯は、お手のものでした。
悪戯の常習犯というやつで、良いことをして、褒められたということが無く,悪戯がばれて、まれに僕の名前が入ってないと、それだけで褒められるという有様でした。
授業参観というものに親が来てくれたという記憶がありません。
「そんなものに、わざわざ学校に行かんでも、わしは先生に呼び出されて、何回も、何回も校長室に、頭を下げにいっとる、しまいには、お父さんも毎回、毎回、大変ですねと先生に同情される始末じゃ、情けないわい。」ごもっとも、ごもっとも。
両親に勉強しろと言われたことは無く、「頭なんか良くなくてもいいから、お前が真面目にさえなってくれれば、それだけでいいわい。」
こう言われると、ねじべぇの僕は、少しは頭を良くしようと、自発的に勉強はしました。
今の言葉で言うと、問題児、そんな僕に、先生をはじめ、周りの大人達は、何一つ、皆と分け隔てることなく優しく接してくれました。
そのお陰で僕には嫌な記憶が一つもありません。むしろ、今はたたかれた事、怒られた事のほうが楽しい思い出となって、懐かしく思い出されます。
豊かな自然と、たわいない子共の悪戯とどこかで笑って許してくれた大人達と、いつも楽しく遊んでくれた友達に囲まれて,伸び伸びと、子共時代を過ごせたことに、感謝、感謝です。
今日はここまですが、まだ、まだ続きますので、どうか、飽きずに読んでください。



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2008.08.21 Thu 高校性時代

父が43歳、母が36歳、姉が7歳の時、僕は生まれましたので、家の中では、僕一人の天下のようでした。何事も最後は泣いて駄々をこねれば、何とかなる。甘やかされ放題でした。
けして裕福ではありませんでしたが、父ちゃんがいて、母ちゃんがいて、姉ちゃんがいて、何時も笑い声がありました。
そんな優しい笑顔に囲まれていたせいか,精神的に悩んだり、苦しんだりした記憶もなく、何時も楽観的でした。この楽観的な性格はいまだに変わりません。
精神的に脆く弱く、忍耐力ゼロの僕が、等々、家を離れる時が来ました。高校進学です。
村からバスで40分程の所に皆が通う高校が在りましたが、ねじべぇの僕は村からかなり離れた高校を選んだので、下宿生活になりました。実業高校の林業科を選びました。
何の下調べなく、ここを選んだのは、山が好きだからというたったこれだけの理由でした。
樹木のことを色々と学びたい、クラブ活動もしたいな、出来れば恋愛もしてみたいな。
胸をわくわくさせて、皆、父兄同伴で入学式も終わり、それぞれの科の教室へ戻りました。科の主任先生の話があるので父兄もともに教室で待つようにとのアナウンス。
教室の中では、皆初めての顔なので、少し緊張しながらも、それぞれが嬉しい顔をして先生を待っていました。
眼鏡をかけたかっぷくの良い中年の先生が入って来ました.ギロリと皆をにらみ、最初の一言、大声で、
「貴様ら皆たるんどる、この科の中では一切、甘えは許さん。明日までにみな頭を五厘刈りにして来い。」
このあと、先生が何を話したかは記憶に無し。生まれて初めて出会う恐怖と旋律の時間。
ただただ、この悪夢のような時間が早く終わることだけを願っていました。
父が別れ際に言った言葉は「わしもお前のことでいろんな先生に頭を下げてきたけど、あんな怖い先生は初めてじゃ、何とか、今度こそは真面目にしてくれよ。」でした。
夢に見た楽しい高校生活は登校第一日目で脆くも崩れました。他の科の生徒は髪を、伸ばしているのに僕の科だけ、一年から三年生まで全員皆つるつるの丸坊主、クラブ活動なんて、とんでもない話で、通常の授業が終わると全員2時間ほどの補習授業です。
公務員初級試験と測量士補試験に合格するための勉強をさせられるのです。
完全なる、それも度を越したスパルタ教育です。最後の頼みの綱の恋愛はというと、男子生徒しかいなく、何とも味っけのないものでした。まあまあ好きだった勉強もだんだん嫌いになりました。
悪戯をするなんて飛んでも発奮、ただただ、ねじべぇの性格を自ら抑えつけなければいけないという、忍耐力との戦いの日々です。
それでも楽天家の僕は、思いつめる訳でもなく、幾らかの喜びを探しながら、何とか休むこともなく学校へ通いました。が、ねじべぇの性格を抑えているので、何だかつまらない。
思い出すのは田舎での楽しかった悪戯三昧の日々。
でも皆さん安心してください。仮面をかぶった生活は長くは続かない。
高校三年の二学期の中間試験の時のことです。三時間目の試験が終わり、僕と何人かの生徒がパンを食べている時でした。運悪く先生に見つかってしまい、「貴様ら、皆退学じゃ、それが嫌なら親と一緒に謝りに来い。」
カチン、僕の頭の中のある回路にスイッチが入ったのです。そうですねじべぇスイッチです。
僕だけだったらどんなに謝ってもいいけど、親を呼べだと、そりゃあ、家の父ちゃん学校には呼ばれ慣れとるけど、こんなちょっとした事で呼ばれたことは一度もないわい、ましてや父ちゃんバスに乗って、汽車に乗って一日がかりじゃ、親なんぞ呼べるかい、退学じゃ、退学じゃ。
入学以来、二年と何か月間、くすぶり続けていたねじべぇの心だけに、火がついたら
ウララ、ウララ、もうどうにも止まらない。
他の皆は親を呼び事なきを得ましたが、びっくり仰天、驚いた父ちゃんは、親戚の叔父さん二人と共に学校にやってきて、あとちょつとで卒業なんだからと、先生には頭を下げ、僕には説きふすように、何度もいうのですが、頑として僕は頭を下げず、目出度く退学と相成りました。
わざわざ来てくれた叔父さんは、ちょっと前まで、この町の駅の助役をしていて、顔が広く、
「折角来たんだから、ついでにお前の就職口を探してゆこうう」ということになり、この日のうちに、僕の就職口が決まってしまったのです。
誰よりも早い卒業と、誰よりも早い就職。
いやぁ皆さん、目出度い事は重なるもんですね。
こんなわけで、僕の次の人生が始まるのですが、今日はここまで。
長々と読んでいただき有難うございました。このとんでもない、スパルタ教育先生の名誉のために、一言いっておきますが、卒業生の多くは公務員になり、皆、感謝しているとのことです。
先生は亡くなられてもうおられませんが、最後まで鬼先生を通されたそうです。
ゆくゆくは生徒たちの幸せのためと、鬼のようになられた先生に、時すでに遅しですが、この場を借りて、お礼を申しあげます。
本当に有難うございました。


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2008.08.21 Thu 青年時代

まことに目出度く誰よりもいち早く高校を卒業(3年2学期退学)、誰よりも早い就職。
社会人生活のスタ-トです。高校生活があまりにも厳しかったせいか、何もかもが楽しい。
憧れであった恋愛もし、何の不満もありませんでした。
が、何だか刺激が足りないのです。だんだん飽きてきたのです。
とうとうねじべぇ様の出番となりました。 皆と一緒じゃつまらない、よし、絵の勉強をしに東京へ行こう。
ウララ、ウララもうどうにも止まらない。当然家族は猛反対。
「なんでお前は人と同じことが出来ないんや、もう、情けなくて、情けなくて、母ちゃんひと様に顔向けできんわい。、いままで父ちゃんも、母ちゃんも、一体誰のために苦労してきたとおもっとるんや。」
「俺のために苦労してくれなんて一回もたのんどらんわい、それになあ、人と同じことしてて何が面白いんや。」
僕は辰年、母ちゃんもふたまわり離れた辰年。辰と辰のけんかはなかなか止まらない。
「お前みたいな極潰しはもう知らんわい、東京でもどこへでもいって死んでしまえ。」
「おう、東京で見事に死んでやるわい。」
僕と、母ちゃんの喧嘩の最後は何時もワンパタ―ン、「お前なんか死んでしまえ。「おう、死んでやるわい。」
この何とも元気のある死のやり取りが始まると、ようやく、父ちゃんが口を開くのです。
父ちゃんは酉年生まれでして、酉年だけに「お前たちの話はちっとも前に進まんわい、もうこの辺で、
コ,ケッコウ。」 
「母ちゃんはお前のことになると、心配のあまり気違いのようになる、ちょつとは母ちゃんのことを考えてやれよ。まあ今回だけは許してやる、東京へ行ってしっかり絵の勉強をしてこい。ただし、3年間やぞ。」
「父ちゃん、あんたそんな気軽なこと言うけど、こんなあほを東京へなんぞやったら、何しでかすかわからんよ。それに今回だけは許してやるって、これで何回目の今回や、大体、こいつがこんな風になったのも、父ちゃんのせいや。」
何時の間にか、鉾先は父ちゃんへ向けられました。
「わしは小さい時からものを作るのが好きで、本当は、大工になりたかったんやけんど、親に反対されてなれんかった。いまだにこれだけは後悔しとる、こいつにだけはこんな後悔をさせとうない、それに男やったら何時かは立ち直ると信じとる。」
「こんな父ちゃんどこにもおらんよ、今の父ちゃん言葉を肝に銘じておけよ、母ちゃんもう何にも言わんわ。」
ぼくも、初めて聞く父ちゃんの言葉でした。
母ちゃんの良いところは、あんなに無茶苦茶怒ったのに、すぐけろっとするところでした。
そして、怒った後の食事は、いつも僕の大好きなものばかり作ってくれるのでした。
「一杯食って元気を出さにや-、最もお前にはこれ以上変な元気を出されたらこまるけんど。」
「母ちゃん、変な元気でもないよりはましやで。」
何時もすぐ、冗談が出るのです。この日の晩も、
「当分母ちゃんのまんま食えんのやから、ありがたく食って行けよ。頑張って勉強するんやで。」
「そんな事言われんでもわかっとるわい、3年後には画家や、その後は大画伯と呼ばれるようになるかも知れん、そうなったら、父ちゃん、母ちゃんどうする?」
「何、アホなこといっとるんや、お前はガカではなくてバカや、別に立派になってくれんでも、真面目にさえなってくれればそれだけでいいわい。」
僕はこの三日後、胸を膨らませて憧れの東京へと旅立つのです。
父ちゃんは「ひと様に迷惑だけはかけるなよ。」
母ちゃんは、涙でくしゃくしゃの顔で「体壊すなよ。」
「わかっとる、じゃあいってくる。」「おう、行ってこい。」
我がままばかり通してきた僕も、歩きだしたとたんに涙が溢れて止まりません。ねじべぇな僕は、こんな顔は見せられないと、一度も振り返ることなく、涙の旅立ちとなりました。


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